両親の愛情が子どもの健全な成長に不可欠であるとの認識のもと、子どもの連れ去り別居、その後の引き離しによる親子の断絶を防止し、子の最善の利益が実現される法制度の構築を目指します

令和2年5月30日、Yahoo News!

新しい家族~高校生マザーズと共同親権と「変な大人」

田中俊英 一般社団法人officeドーナツトーク代表

■子どもの基本的人権、「家族」を広げる、「地域」を再定義する
5月中はリアルイベントは無理だろうと判断し、先週末にオンラインイベントを4本連続で僕は参加したり行なった。それらは、「共同親権」系が2本、高校生の若年出産(「高校生マザーズ」と名付けている)系が1本、NPO業界のあり方を問う系が1本、というものだった。
ほとんどがクローズドな有料イベントだったので記録を残していないのだが、共同親権系イベントでは、YouTube動画がひとつ上がっている(大西つねき 共同親権と新しい家族の形について(ゲスト田中俊英さん))。
それらイベントのなかで不思議と反復されたのが、
1.「(新型コロナも含めて)社会が混迷するいま、その混乱のなか潜在化させられている『子どもを尊重することの重要性』に気づく必要がある」、
2.そのためには「(毎年20万組が離婚している)家族」の新しいかたちを見つめることが求められている、
3.家族だけではなく地域そのものも新しくなる時期が来ている、
ということだった。
それぞれを言い換えると、
1.「子どもの基本的人権」をあらためて尊重する
2.「家族」を広げる
3.「地域」を再定義する
あたりになるだろうか。
■若い母(元「高校生マザーズ」)一人では育児は困難
今回は2の、「『家族』を広げる」「地域を再定義する」について簡単に書く。それが1の議論の下地となる。
当欄で繰り返し述べているように、日本は数少ない「単独親権」国であり、一方の親による「子の連れ去り」が頻発する現状は、欧米からそれを「誘拐」と指弾され、子どもの基本的人権を無視するひどい国だと批判され続けている。
連れ去りをせずとも、単独親権のもと孤立化する育児環境のなか、親子とも疲弊している。児童虐待は実母による加害がいちばん多い(子供の虐待で圧倒的に多い加害者は実母)のもその疲弊の具体的現象だ。また、再婚したあと義理の父による虐待事件も日常的に報道されている。
児童虐待にまでエスカレートせずとも、単独親権下で孤立する保護者たち(多くは母、そして母の両親~つまり祖父母)は、育児に悩んでいる。
強引に子どもを連れ去る例もあれば、「無責任別居親」(多くは若い父)が去ってしまった結果、母一人(+祖父母)で育児する場合もある。前者であれば自業自得、後者であれば被害者の面もあるのだが、結果として若い母一人に育児が押し付けられている(この若い母は、少し前まで高校生であり、つまりは「高校生マザーズ」である)。
当然その若い母(元「高校生マザーズ」)一人では育児は困難だから、その若い母の父母が育児を手伝うことになる。
突然舞い込んできた育児を楽しんで行なう祖父母もいる。逆に、その育児補助は負担だと明言する祖父母もいる。特に後者の「負担組」祖父母のあり方は、若い母にはとてもキツイ。
ここでは誰も悪人ではない。けれども、油断すると、最も弱い存在、つまりは赤ちゃんや幼児の存在が後回しにされる。
人生の流れでできてしまった子ども、最初は多幸感に包まれるが、育児の現実が始まった時に、自分の「青春」が奪われてしまったと感じてしまう若い母たち。
単独親権のため子どもを自らのもとで育てる充実感はあるのだが、強引に「拉致」した場合でも、無責任父が出ていった場合でも、すぐにその充実感よりは日々の苦闘に悩むようになる。
そして、その母の父母たちの協力を得るにも最大の気を使わなければいけない。
■「昭和的地域」ではなく、現代にふさわしい人々のつながりのあり方
だから、誰も悪人ではない。けれども、最大の当事者である赤ちゃんの人権が後回しにされる。言い換えると、「世界にたったひとりのその赤ちゃんにしかない唯一性」が、育児のたいへんさという日常に負けてしまう。
この閉塞感の解決は一つしかない。シンプルに、赤ちゃんや幼児の周りにいる「大人」を増やすことだ。
もちろん「アタッチメント」形成期である0.5~2才頃までの、数人の大人との濃密な「だっこ」の関係性がすべての土台ではある。それは、数名の大人、父母であることが望ましいが、それが無理になった場合は、母や母系の祖父母であっても構わない。
問題は、こうしたアタッチメント(「愛着」は誤訳だと思われるので原語で表現する)形成期に必要な数名の大人以外に、多重で多層な人々を子どもの周辺に配置させることだ。
それは、保育園だけでは足りない。できれば、母方の祖父母の他に、父とその祖父母、また、母のきょうだいとその家族、当然父のきょうだいとその家族もいればなおのこといい。
その意味でも、「共同親権」が望ましい。
また、「地域」にいる大人たちの協力があれば一層心強い。
僕自身の事例で恐縮だが、かなりの「田舎」で育った僕は、乳児の頃、畑作業をする母の側に僕を横たえた乳母車や籠がいつも置かれ、隣の畑で作業する近所の人々に若かった僕の母は僕をみてもらっていたそうだ。
「地域」が堅固だった頃、大人同士の付き合いの中で、そうした「無償のケア」は当たり前だった。保育園等の「契約下の関係性」ではなく、ただ近くに住んでいるというだけで子どもをケアすることは自明だった。
当然、素朴に昭和に帰ることはできない。
「昭和的地域」ではなく、現代にふさわしい人々のつながりのあり方が求められている。
その再定義の一つとして、たとえば「高校内居場所カフェ」に必要不可欠な「変な大人」の存在がある(なぜ「変な大人」と出会うことができなかった?。
その構築はおそらく、いま50代になった人々が担っていると思う。冒頭に提示したYouTube動画の中で、打ち合わせてもいないのに、奇しくも僕と大西さん(動画製作者・昨年の参院選でれいわ新選組から立候補)の意見が合ってしまったのはその点だった。
50代を中心とした「大人」には、新しい家族や地域を提示する責任がおそらくある。

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